2008年05月05日

『郊外へ』堀江敏幸


最初に読んだ本のタイトルは#『熊の敷石』でした。
えぇ、そのせいに違いありません。そうですとも!

本屋や図書館で彼の著作を探すとき…
「えーっと、クマ江さんクマ江さん…あれ?ナイぞ?」
という、混乱の渦に巻き込まれてしまうのは、
ワタクシのせいじゃないハズ!
このワタクシがおマヌケだということではないハズ!
注:本当は「クマ江さん」じゃなくて「堀江さん」。(* ̄m ̄)

しかも毎回必ず迷います。
( ̄‥ ̄)=3 アイカワラズダネ…

まったく紛らわしいったらありゃしない。(←ばか)


「レミントン・ポータブル」
「空のゆるやかな接近」
「夜の鳥」
「動物園を愛した男」
「霧の係船ドック」
「ロワシー・エクスプレス」
「灰色の血」
「給水塔へ」
「記憶の場所」
「首のない木馬」
「坂道の夢想」
「垂直の詩」
「タンジールからタンジェールへ - あとがきにかえて」

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)
郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径) モバイルの方はコチラ
ワタクシは単行本を読んだんですけど、これ ↑ には解説とか追記とかあるんでしょうか。ちょっと気になります。


そうだったのか!
( ̄+ー ̄) キラリンッ!

苦労の末、手にすることの出来たエッセイを読んで
ワタクシはひとつの回答を得たような気がしました。

「「仏語訳」による読書は、したがって安易で無責任な行為ともいえるのだ。」
(「動物園を愛した男」本文より抜粋)
注:上記抜粋文の「したがって」の部分が何にしたがっているのかは、本を読んでお確かめください。ごめんくださいまし。(* ̄m ̄)

要するに、日本人である著者が仏産フランス文学ではなく、フランス語へと訳されたフランス以外の国の文学を、自分にとって異国語であるフランス語を駆使して読むことに「やすらぎ」を感じるのは、その文化の原産国とも自身の文化的背景である日本とも直接的な接点のないフランス語という媒体を介しているために、物事の本質を理解しなくても済むからなのではないか、という感じのことなんですけど。 「要する」ことに尽力した結果がこの長い文章なのかと思うと、やるせなさが残るんですけど。 いいんですけど。
( ̄▽ ̄;;) アハ。アハ。


ということで、このあたりの箇所を読んでいて
ワタクシが思っていたのは…

クマ江さn…おっとまた。イケナイ。
堀江さんの文章を、自分は「童話みたいなつもり」で
楽しんでいたんじゃないか、ということなんですね。


それはもう、文学とかましてや純文学とか高尚なものではなくて、「今自分がいる世界とは少し外れたところにあるもうひとつの世界へ迷い込むことの快感」といった感じの、いわゆる「ワタクシ、アリスざます。ヾ( `▽)ゞホーッホッホ。( ← ?)」という感覚だったみたいです。

そしてその快感は、著者の存在を感じさせないところに転がっているもので、それを意識せずに読むことさえ出来れば、舞台がフランスではなくても大丈夫だよね?という疑惑も浮上するくらいです。 今回のエッセイのように文学者としての著者が前面に出ていると、感じられるのは時々でした。

こんな楽しみ方は、彼の言う仏語訳による読書と
通じるところもあるんじゃないかなぁ、なんてね。
(ノ・_-) ヘヘヘ。


なんだか否定的に取られてしまいそうで怖いけど、
これでも他の作品もまた読みたいと思っています。

堀江さんの文章を読んでいる間、
ワタクシは「どこでもないどこか」を彷徨うことができる。
それは、パリ郊外へ誘われる彼がいてくれるお陰なのです。

堀江作品、記事はこちら。
#『熊の敷石』
#『ゼラニウム』




posted by MOW at 21:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書
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